2022年7月6日水曜日

2022年7月6日ルーテル教会信徒説教の学び・習作原稿 ルカによる福音書10章1-11

 2022年7月6日ルーテル教会信徒説教の学び・習作原稿 ルカによる福音書10章1-11

先年から教会の信徒説教(信徒が説教奉仕するの)の勉強をやっていて、その演習が始まった。今月はぼくの当番日。

手間がかかっている割にどこにも出す予定のない原稿なので、ここで公開。講師の牧師先生のコメントを備忘録でつけておきました。

説教というより、聖書をテーマにしたエッセイだな。「お前はどの口で神を語るのだ」とお思いでしょうが、そこはつっこんじゃいけません。

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2022年7月6日信徒説教の学び原稿 鈴木輝一郎

ルカによる福音書10:1-11,10:16-20

イザヤ  66:10ー14

ガラテヤ 6:(1-6)、7ー16

 本日の日課はイエス様が72人の信徒を派遣する話です。今日は「宣教のはたらきは主によって守られる」というテーマでお話ししましょう。

 この箇所を読むたび、四十年ぐらい前、カラオケの飛び込みセールスをやっていた当時を思い出します。

 あの時代、カラオケボックスというものはなく、カラオケはバーやスナックにしかありませんでした。飛び込みセールスとは、行ったことのないバーやスナックを、アポイントもなにもとらずに名刺を持って「カラオケを置きませんか」と、いきなり売り込みにいくものです。
 もちろん歓迎されるわけはなく、塩をまかれたり、目の前で渡した名刺を破られたり、かなり辛い思いをしたものでした。

 このとき学んだのは、「知らない相手の閉ざされたドアを、叩いて開けてもらう瞬間が、もっとも怖い」ということでした。(先生のコメント・ここにヨハネ黙示録4:10の『扉を叩く』の箇所を引用すると良かったですね)

 イエス様から宣教を任命された弟子たちは、どんな気持ちでおもむいていったのでしょうか。
 イエス様が信徒に出した指示は、かなり細かいものです。まるでセールスマンのマニュアルのようです──というか、セールスマンのマニュアルが聖書のこの箇所から学んだのかもしれませんが。

 行く先々で歓迎されるのであれば信徒たちも喜んで行ったでしょう。ですがこの直前、9章では、イエス様でさえ、サマリア人の村で歓迎されなかったと書かれています。イエス様が「子羊を狼の中に送るようなものである」と言っておられるのは、なんとなく実感できます。

 知らない扉を叩くとき、歓迎されるかどうかというより、歓迎されないことのほうがはるかに多い。「だれにも道であいさつするな」とは、不安を抱いたまま知人にあったら、その知人と話し込んでしまうことを、イエス様はご存じだったからでしょう。「二人ずつおつかわしになった」とは、一人だと心が折れ、三人だとサボってしまう弱さを知っておられたからでしょう。

 初めて訪れた家で、歓迎されることは滅多にありません。「その家に泊まったらそこで出される物を食べ、また飲みなさい」と迎えられることは、最上の扱いだと解いておられますし、「家から家へと渡り歩くな」とは、「信用されたのだから腰を据えて信用を育てよ」ということでしょう。
 さて、このときの宣教は、とても順調だったようです。ただし、よいことばかりではありません。

 うまくいきすぎると、人間は舞い上がり、本来の目的を見失いがちになるからです。
「七十二人が喜んで帰ってきて言った、『主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します』」というほどに順調な宣教でした。見ず知らずの家をいきなり訪問して、全員が成功するのは、信じられないほど好調だといっていい。ひとりも扉を開けられなかった可能性もあったわけですから。

 しかしイエス様は喜んで宣教から帰ってきた信徒たちを祝福なさりつつも、「しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな」とたしなめておられます。そして「むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」と言っておられます。
 信徒たちは「悪霊がわたしたちに服従」と言っていますが、ここに信徒たちの思い上がりがうかがえます。悪霊が服従したのは信徒たちにではなく、お遣わしになった神様に服従したからです。

「誰のための宣教か」を忘れてはいけません。
 悪霊を退散された人ではなく、宣教をした人自身が救われたということを、イエス様は伝えておられます。目先の結果に振り回されると、本来の目的を忘れ、傲慢になります。

 さて、今日では、宣教のために知らない家を訪問することは、あまりありません。 それならば、わたしたちは、誰に、どうやって宣教しているでしょうか。わたしたちをみている人々に、わたしたちの行動で宣教している、というのがいちばん近いのではないでしょうか。わたしたちは毎日、生き、行動することで、見えない扉を叩き、見えない扉を開けていただいているようなものではないでしょうか。

 毎日の信仰生活は、毎日知らない扉を叩いているようなものだろうとおもいます。 思い通りにゆくかどうか、つねに不安を抱いているとき、イエス様はいつもいてくださいます。そして、思い通りになったとき、それは誰かのためではなく、イエス様から与えられた祝福だということを、忘れないようにしましょう。(先生のコメント 最後に癒やしや愛を強調するといいでしょう)

(以上概算 1800文字)



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