2023年10月25日ルーテル教会東海教区・信徒説教講義の演習原稿
通ってるプロテスタントのキリスト教会・ルーテル教会で「信徒が説教を学ぶ会」ってのがあって、そこで勉強してます。
先日、その演習の当番がまわってきたので、その原稿。けっこうぎりぎりだったので推敲が間に合わず、予定の3倍ぐらいの分量があります。長いよ。
特にどこかで発表する予定も説教の予定もないので、自分のホームページで公開。
口頭のみでの説教・プロジェクターなしの前提で原稿を作ってあるのでセンテンスの冒頭にしつこくテーマを繰り返してます。
くりかえしますが、ながいよ。
@@@説教ここから@@@@@
2023年10月25日信徒説教者説教原稿「神のものは神のものに 神様への信仰と、政府への信頼をごちゃまぜにするな」1800文字目標
鈴木輝一郎
説教箇所は、マタイによる福音書22章15節から22節
今日の説教は「神のものは神のものに・」というテーマでお話をします。
ユダヤの人たちは、神様への信仰と政府への信頼の区別がついていませんでした。イエス様は彼らに「神様への信仰と、政府への信頼をごちゃまぜにするな」と指摘なさいました。
今日は、そんな話です。
海外旅行にでかけてその国のお札を手にすると、なんだか子供銀行のおもちゃみたいな気がしますね。日本でも2024年7月から、新札になります。1万円札が福沢諭吉から渋沢栄一にかわります。お札はだいたい20年ごとに新しくなる。私が記憶しているのは、聖徳太子から福沢諭吉に変わったときですが、お札が新しくなるたび、慣れるのに時間がかかります。なぜそんな気分になるのか、そんな話をしてゆきましょう。
さて、今日の福音はイエス様とユダヤ教徒の偉い人たちとの論争の続きです。
このすこし前、マタイによる福音書21章23説で、イエス様は神殿で、ファリサイ派の人や祭司長たちを相手に「権威」について問答をしました。イエス様が神殿で説教をしていたとき、祭司長たちは「何の権威でここで説教をしているのか」と問い詰めました。そこでイエス様はヨハネから洗礼を受けたというお答えをしたうえで、
「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」とおたずねになりました。これに対し、ファリサイ派の人たちはヨハネを信じようとせず、しかも、「『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」とこたえています。
ファリサイ派の人々は、神を恐れていたのではなく、人を恐れていたわけです。
では、今日の福音書の箇所をみてゆきましょう。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」という、有名な箇所です。
イエス様に言い負かされたファリサイ派の人々は、ヘロデ派の人々とともにイエス様にふたたび論争をしかけます。
ヘロデ派とは、ユダヤ教徒のなかで、ヘロデ王を支持する党派の人々です。ファリサイ派はユダヤ教の律法を守って生きることを第一としている人々でした。つまり、もともとはヘロデ派とファリサイ派は同じユダヤ教のなかでも、相反する考えをもっていました。しかし「イエス様を陥れよう」という目的のために一致したわけです。イエス様はすべてのユダヤ教徒と戦われることになった、といってもいいでしょうか。
そこでヘロデ派とファリサイ派の人たちは、イエス様を罠にかけようとしました。どんな罠でしょうか。
それは、イエス様が「はい」と言っても「いいえ」と言っても、イエス様の立場が危うくなる質問をすることでした。
21章17節で「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」と質問しています。これのどこが罠なのでしょうか。
このとき、皇帝に納める税金は「デナリ銀貨でなければならない」と決められていて、このデナリ銀貨には「皇帝は神の子」という意味の刻印が押されていました。イエス様が「はい」と答えたら、ユダヤの人々は「皇帝に税金を納めるのは皇帝を神と認めることだ」とイエス様を責めることになります。
その一方、イエス様が「いいえ」と答えたら、「納税拒否をあおった」として、重罪に問われることになります。
繰り返します。ヘロデ派とファリサイ派の人々は、イエス様が「はい」と答えても「いいえ」と答えても、罪に問われる、と考えて質問しました。
ですが、ここでヘロデ派とファリサイ派の人々は、大きな間違いをしていることに気づきませんでした。かれらは「神様への信仰」と「行政への信頼」の区別がついていなかったのです。
ところで、お金の話に戻ります。
一万円札を1枚つくるのに、いくらかかるかご存知ですか? 令和4年度の段階で19円です。この「一万円札の製造原価」は公表されています。財務省によると令和4年度に製造したお札は1万円札14億6千万枚、5千円札1億5千万枚、千円札12億9千万枚、合計29億枚です。そして日本銀行の令和4年度の決算書の「銀行券(お札のことです)製造費」は549億円です。
つまりお札を1枚つくるのにかかるのは18.9円です。
ちなみに、セブンイレブンでA4のカラーコピー代は両面で1枚百円です。セブンイレブンのコピー代が福沢諭吉の5倍というのは、なんだか不思議な気がしますし、その「不思議な気がする」が、まさにお金の本質です。新札を手にしたときや、海外旅行で外国のお札を手にしたとき、「おもちゃみたいな気がする」のは、お札をつくるのに19円しかかかっていないからですね。
ではなぜ1枚19円のお札を「1万円の価値がある」と感じるのか。それは「みんなが価値があると思うから」です。「発行した人・政府を信頼しているから」といい替えてもいいですね。「お金の価値は、人が決める」と言ってもいいでしょう。
それでは「お金」って何でしょうか。経済学では「貨幣(お金)とは商品交換の媒介物で、1)価値尺度 2)流通手段 3)価値貯蔵 の三機能を持つもの」と定義しています。
つまり、1)ものの価値をはかることができること 2)労働や物の支払いに使えること 3)価値をたくわえられこと のことです。
江戸時代までは「お米」が「お金」として使われていました。「大判小判とか銭とかはどうなんだ?」という話はもうちょっとあとでします。
岐阜県大垣市は江戸時代、大垣戸田藩十万石でした。この「十万石」はお米の単位で、わかりやすくいうと「大垣の戸田様の給料は十万石」という意味です。ちなみに「1石」は「大人1人が1年間に食べるお米の量」をもとにしています。
お米は誰にとっても価値があり、蓄えることもできるし、支払いもできる。似たようなものとして、麦とか塩とかがあります。
ただ、ある程度決済の額が大きくなったり、決済や貯蓄が長期にわたる場合には、お米では困ります。
そこでみんなが共通して価値を感じるものとして貴金属が使われるようになりました。金貨や銀貨、銅貨(銭と呼ばれることが多いですが)などです。
さて、ここで問題があります。
1キロのお米は、だれがどう見ても1キロです。
ところが、貴金属には混ぜものができる。
銀貨に混ぜものをして重さを倍にしたとしましょう。「1デナリオン」と刻印を打った銀貨を溶かして混ぜものをし、「1デナリオン」と刻印を打った銀貨を2枚つくったとします。このとき、生まれた2枚の銀貨は、「1デナリオン」でしょうか。それとも「2デナリオン」でしょうか。
答えは「2デナリオン」です。
では、このとき増えた1枚ぶんは何の価値でしょうか。
それは「政府に対する信頼の価値」です。「ローマ皇帝がこの銀貨1枚には1デナリオンの価値があると言っている、とみんなが信じているわけです。
やがて「金や銀を流通させるより、『この券を銀行に持っていくと金や銀に交換してくれる』」という「紙幣」が発明されます。これは『兌換紙幣【だかんしへい】』と呼ばれているものです。20世紀の後半、1971年まで、アメリカドルは金【きん】と交換できました。
現在は「金【きん】と交換できなくても、互いに価値があると思えばそれで価値は生まれる」ということがわかるようになりました。ほぼすべての紙幣は、それぞれの国が発行する枚数を管理しながら印刷しています。
1枚19円の製造原価の1万円札が「1万円の価値がある」と思う理由はまさにそこにあります。海外旅行にでかけたとき、現地のお札がおもちゃのように感じるのも、行った先の国の政府に対し、信頼できるほど知らないからです。
繰り返します。お金の価値とは「そこに書かれた(または刻印された)政府に対する信頼」、すなわち「人に対する信頼」のことです。
とても重要なことですが、お金の価値は、下がるようにできています。
戦争や革命などで政府の信用が急激に落ちると、お金は大量に発行されます。「ハイパーインフレ」と呼ばれる現象です。第一次世界大戦後のドイツ帝国では貨幣価値が1兆ぶんの1になりました。お正月に650円だったビックマックセットが、年末に650兆円になっている状態です。信じられないようですが、歴史ではよくあります。
また、政府の信用が落ちなくても、お金の価値は下がるようになっています。ゆるやかながら「コストプッシュインフレ」というものがあります。「人が長く働いていると給料があがる→人件費が製造費に上乗せされて物価があがる→生活のために給料をあげる」というサイクルがあります。
厚生労働省の統計によれば、1968年の大卒の初任給は30,600円。2012年は201,800円です。みかけ上、44年間かけて初任給が6.6倍になりましたが、生活が6.6倍豊かになったかというと、そんなことはありませんね。物価が6倍になった、つまりお金の価値が6分の1になった、ということです。
さて、ここでイエス様のやりとりに戻りましょう。
ユダヤの人々は、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」とたずねました。
ユダヤの人々は「皇帝に税金を納めること」すなわち「政府を信頼すること」と、「律法にかなうこと」すなわち「神様への信仰」の区別がついていませんでした。
「皇帝に税金を納めること」とはどんなことでしょうか。「ローマの支配下に置かれる」ことは確かですが、実は支配者は支配者の仕事があります。つまり納められた税金で、支配地の治安・警察などを行っています。イエス様が十字架にかけられた隣で、盗賊のバラバが処刑されましたね。ああした盗賊を逮捕し処罰するのも支配者の仕事です。
イエス様は問い詰めたファリサイ派やヘロデ派の人に、「これは、だれの肖像と銘か」とあらためておたずねになりました。そこに打刻されたのは「ローマ皇帝の肖像」と「『この銀貨には1デナリオンの価値がある』と保証する」という意味の銘であって、それ以上のものではありません。
イエス様が「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」とお答えになったのは、すなわち「皇帝は神ではない」ということ、「力ある者を神様と混同してはならない」といっておられるわけです。
繰り返します。イエス様は「神様への信仰と、政府への信頼をごちゃまぜにするな」と指摘なさいました。
なぜ指摘なさったのか? 皇帝や行政府などの強大な力への信頼と、神様への信仰を、混同してしまいがちだからです。
ファリサイ派やヘロデ派の人々を「おろかだ」と笑うことはたやすい。ですが、強大な力を持つ者を「神様の力」と間違えやすいのもたしかです。
しかし、政府への信頼と、神様への信仰と、では決定的な違いがあります。
つまり、政府への信頼は、お金【かね】でみられるように数値で表すことができたり、価値が落ちたりします。しかし神様の愛と信仰は、数値で表すことはできず、価値が下がることはありません。
イエス様は「皇帝のものは皇帝に返せ」とおっしゃいました。それが「政府に対する納税は怠るな」という意味であることはわかりました。
そしてイエス様は「神のものは神に返せ」とおっしゃいました。では、わたしたちは何を神様から与えられ、何を神様にお返しするべきなのでしょうか。
今日のイエス様の言葉をかえりみて、あらためて深く考え、神様に感謝しましょう。
以上