2023年6月29日木曜日

2023年6月28日信徒説教者演習「我を忘れても、神を忘れるな」マタイによる福音書10:24-39

2023年6月28日信徒説教者演習「我を忘れても、神を忘れるな」

ルーテル教会(プロテスタントのキリスト教会です)東海教区で「信徒による説教の講習」ってのを受講してます。その演習で書いた信徒説教者の演習原稿です。
どこかに出す予定はないけど、せっかく書いたのでここにあげておきます。
12分程度の説教を想定しているので3600文字あります。長文です、念のため。
あと、文字媒体ではなく、音声のみ・パワポなしを前提としているんで、テーマの繰り返しが多い。そこいらはご容赦のほどを。

長文なのでYou Tubeでの音声を収録しておきました。

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今日の福音 マタイによる福音書10:24-39

タイトル「我を忘れても、神を忘れるな」

 本日の福音から、「信じることを行うとき、人をみないで、神の御心にかなうかを意識しよう」という話をします。
 人から迫害されても神を信じ、人を恐れるのではなく神を恐れよ、という話です。

 今日の福音の箇所は、イエス様が宣教と伝道についての心構えをお伝えになったところです。

 ここまでの流れを、すこし振り返りましょう。
 マタイ福音書10章に入ると、イエス様は12使徒を選び、任命しました。5節から派遣にあたっての指示が使徒たちに与えられます。2人で組んで宣教すること、理解者にとどまることなどでした。そして迫害されることを前提として行動せよ、と、お示しになりました。蛇のようにさとく、鳩のように素直でありなさい、と仰っておられます。

 さて、それでは本日の福音の箇所です。
 イエス様は宣教に当たって、迫害されることを前提にした四つの指示と三つの警告を発しておられます。

 まず四つの指示とは、次のようなものです。
 1)使徒たちは、イエス様と同じように人々から迫害されることを受け入れよ、ということです。「弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう」ということです。
 2)使徒たちは人を恐れるな。「人々を恐れてはならない」とあります。
 3)宣教するとき、人を恐れず、神を恐れなさい。「むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」とあるとおりです。
 4)神は宣教する者を見守っておられます。2羽で1アサリオン(通貨のなかの最小単位だそうです)で売られている雀でさえも、神に守られています。そのことを信じなさい、という指示です。

 イエス様の三つの警告とは、次のようなものです。
 1)イエス様を宣教することで人と対立する場合があるという警告。「わたしは敵対させるために来たからである。」とあります。かなり驚きますが、「周囲に反対され、迫害されても、神に祝福される仕事・行動」は現実にあります。
 2)家族よりもイエス様を優先することは大切であり、そのときには自分の十字架を背負ってイエス様に従わなければならない、という警告。
 3)自分のために命を失うのではなく、イエス様のために命を失え、という警告。

 つまり今日の箇所をざっくりとまとめると、

「神をのべ伝えるとき、人との対立を恐れるな。迫害を恐れるな。ただし常に神の御心に従いなさい」

 ということです。

 さて、そこで、私たち信徒にとって「神をのべ伝えることとはなにか」を考えてみましょう。

 ルーテル教会では「万人祭司」といいます。
 私たち信徒がする「神をのべ伝えること」とは、それぞれの賜物を活かして、神の御心にしたがって、それぞれ与えられている就いる職業で仕事をすることが、神につかえるということです。

 では、今日の箇所のような、「周囲に反対され、迫害されても神に祝福される職業」というものはあるのでしょうか?
 実は意外と多いし、けっこう身近にもあります。
 この「周囲に反対され、迫害されても神に祝福される仕事」をAIで調べてみると、次のような仕事がリストアップされます。想像している以上に多岐にわたっています。

1)貧しい人や困っている人を助ける仕事
 福祉職、医療従事者
2)平和のために働く仕事
 外交官、政治家、難民救援活動
3)人権を守る仕事
 弁護士、人権活動家、人権NGO
4)環境を保護する仕事
 環境保護活動家
5)正義のために戦う仕事
 警察官、検察官、裁判官、自衛官、軍人

 福祉職は「周囲に反対され、迫害されても」とは無縁に思えます。
 ですが、意外と身近にあるものです。

「あゆみの家」が創設された当初、資金集めに苦労し、ボーマン先生が私財をなげうっていた時期があったそうで、ミセスボーマンが「あのときは、本当に大変だった」と言っておられたのを思い出します。

 薬物依存症リハビリテーションセンターの「ダルク」は全国にあります。ただ、「覚醒剤や大麻などの依存症をおえ、社会復帰のためのリハビリをする」という施設の性格上、活動をするうえでいろんなハードルがあります。スタッフが氏名や顔を公表して広報活動をするとき「つまりかつて違法薬物をつかっていた」と公表するわけで、家族から「公の場で顔や名前を出すことをひかえてほしい」と言われることも少なくないとのことです。

 人が何かに熱中することを「我を忘れる」ともいいます。
 こうした「周囲に反対される職業」のうち、よく「やらかす」職業では、芸術系の職業があります。

 画家や音楽家などの場合、家庭をかえりみずに没頭する例は、とてもよく見かけます。
「芸のためなら女房も泣かす」という演歌がありました。落語家の三遊亭春団治のことを歌にして物語ったもので。
 たとえば文豪・太宰治は太宰治は、妻や愛人を何人も自殺に追いやったとされています。しかし、その一方で、彼は「人間の心の闇」を鋭く描いた作品を残し、戦後日本文学に大きな影響を与えました。
 文豪・三島由紀夫は晩年、政治思想に熱中し、自衛隊の市ヶ谷駐屯地に乱入してクーデターを扇動しましたが失敗し、割腹自殺をしました。しかし彼の作品は、いまもなお読みつがれています。

 ちなみに小説家の場合、新人賞を受賞してプロとしてデビューできるのは、独学の場合でおおむね数百人にひとりぐらい。音楽家や画家にくらべるとプロになるのは意外と簡単ですが、その一方、音楽家や画家のような「趣味でたしなむことができる」場が極端にすくなく、「プロかまったく読まれないか」、ほぼ二つしか選択肢がないことが特徴です。
 小説家の場合、新人賞を受賞してプロでデビューした後、おおむね9割がデビュー2作めを出せずに廃業します。飲食業は開業5年で9割が廃業するそうですが、小説家の場合、税務署に青色申告の開業届けを出す前に廃業をしいられるので、廃業率の統計はありません。
 この数年、あまり見かけなくなりましたが、以前は私の小説講座を受講するなかで「小説家を目指して会社を辞め、小説の執筆だけをして数十年」という小説家志望者がよくいました。それがいいことか悪いことは、私にはわかりません。ただ、こうしたケースを受講生から相談された場合には「まず定職について収入と社会生活を確保しましょう」と提案するようにしてはいます。

 さて、あなたは、何かに熱中したことや、我を忘れて何かに夢中になったことはありませんか?
 面白い本を読む。面白い映画を観る。ゲームをやる。絵を描く。どんなことでも構いません。食事をわすれ、眠ることを忘れ、熱中したことはありませんか?

 イエス様は「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。」と言っておられます。なにかに熱中するあまり、家族を二の次にすること、ときには自分の命さえかえりみないことを、イエス様は決して否定しておられるわけではない。

 ただし、イエス様は「誰のために熱中するのかを忘れるな」と言っておられます。

「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」つまり、何かに熱中し、我を忘れることがあっても、「神様のため」に熱中しているのを忘れてはならない、と言っておられます。

 繰り返します。
 最も重要なことは「神様の御心にしたがっていることかどうか」です。

 イエス様は世の罪を背負って十字架で死なれました。「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」と言われました。
 あなたの背負っている十字架は、どんなものでしょうか。他人をかえりみずに何かに熱中するとき、人はしばしば自分に酔い、神様を忘れます。
 何かに熱中するとき、それが「自分のため」ではなく「神のため」であることを忘れるのは、イエス様の弟子にふさわしくない、ということです。

 そしてさらに重要なことがあります。
「恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」とイエス様はおっしゃっておられます。また、「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」とも言っておられます。

 何かをなそうとするとき、みずからを信じて何かに進むとき、神様の御心にかなっているのであれば、神様は守り、与えてくださいます。

(ルーテル大垣教会 鈴木輝一郎)

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当該の聖書の箇所は、イエスが「わたしが世にきたのは世を分けるためだ」「宣教のためには家族をかえりみるな」っている部分。テキストは新共同訳です。

かなりテーマが強引なので心配しましたが、褒めていただけました。

2023年6月28日締め切りで講師の牧師先生のチェックを受けた。要するに「ルーテル教会の教義から逸脱していないか」ってことですな。

ここらへんは「自分の意見が最優先」「どんなに逸脱してようが独自性が最優先」っていう普段の仕事と対極にあるんで、そこいらがけっこう難しいところ。

ま、今回はそんなところで。


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